野々村 晴美
心身整え師への道
病気がちなこども時代〜大学時代
(整体師さんに出会うまで)
私は1958年秋田市土崎に生まれました。
その頃の昭和はまだ何も無い時代だけど、
隣近所での助け合いも有り子供は皆んな
外で走り回って遊べる、穏やかでのんびりとした時の流れだった様に思います。
私は幼少期は体が弱くて、外を走り回って木登りをしてエネルギーを使い果たしては、
今度は嘔吐を繰り返し食べ物を一切受け付けなくなるので点滴で栄養補給をする日々が続きました。
酷い時は入院もしました。
病名は「自家中毒」なのですが、今思うと全てに敏感でエネルギー配分が上手くできなかったのでは無いかと思います。
動と静が極端で、好奇心旺盛で動き回り過ぎてエネルギーを使い果たすと布団の中で何も食べずに過ごす。
小学校低学年迄はずっとこの繰り返しでした。
身体を動かすことも大好きだけど、
静かに空を見て空想すること、植物や昆虫、
犬や猫も好き、読書が好きなのは育った環境も有りますが、
”人は生まれ持っての資質がその人の生き方に大きく影響するのでは無いか”と思っています。
子供の頃の経験から同じ様な子供さんを見ると、なんとなく理解が出来ます。
中学から高校迄は軟式テニスをしました。
体育会系の生活です。
元々食べ物の好き嫌いは全く無かったので
食は細いけれど食べる事も出来て、体力も付いて来ましたが、今度は肉体を痛める事が増えて来ました。
特に左膝、股関節、腰痛にずっと悩みました。
大学で上京して今度は硬式テニスを始めました。
ここから、ますます肉体を痛めることが増えて来ました。
元々痛めていた所がドンドン悪化して、
今度は右腕の靭帯を痛めて全く動かなくなったのです。
その時にテニスのプロの方から初めて整体師さんを紹介して頂きました。
病院以外での手当ての仕方が有る事の初めての出会いです。
仕事と、出産そして 野口整体との出会い
その頃は今の様に身近にセラピストさんや整体師さんなど心身への様々なアプローチの仕方は一般的には知られて無くて、知る人ぞ知るという存在だったのだと思います。
私の様な体質の人間にとっては、画期的な存在でした。
今迄の心身の捉え方ではなく、広い視野で人間という存在意義も教えて頂きました。
その後、仕事をしてからは胃潰瘍になり野口整体の操法を本格的に受け始めました。23歳の時です。
私は生理痛は殆ど無く婦人科系では悩む事は無かったのですが、長男妊娠後切迫流産の為に入院し、出産は逆子が戻らず帝王切開でした。
そこから今度は婦人科系の様々な症状が始まって来たのです。
産後は足の浮腫み、頭痛が酷くなり、毎週操法を受けていました。
次男の出産は自然分娩になりましたが、陣痛微弱で促進剤を使い、産後直後胃痙攣を起こし股関節が外れた様になり歩く事もままならいい状態でした。
その間もずっと操法を受け続けました。
そのお陰で、私は自分の今の身体と真正面から向き合いどの様にしたら普通に生活していけるか?日々チャレンジの連続でした。
"それが私自身の身体を通しての大きな学びで有り、とても貴重な経験でした。"
自律整体体操教室を始めるまで・・・これから先への、変わらぬ心根
42歳の時にいつも遊びに行っていたお寺で
『自力整体』をしているという女性と出会いました。
自分の身体を自分でメンテナンス出来る体操だと教えて頂き、その日から自分でやり続けました。
長年の肩凝りや腰痛が楽になり、全身がとても軽くなるのが実感出来るのです。
これはもしかして私と同じ様な体質の人達のお役に立てるのではないかと思い、指導員として活動を始めたのです。
人間は食べ物を食べているから生きていられる訳でも無く身体の中にエネルギー源を埋め込まれる訳でも有りません。
では何故生きられるのか?
それも又人それぞれで全く違うのだと思います。
明確な答えは無くて、それを求めて諦めずにいる事が生きているという事なのではないかと私は思っています。
私は自律整体体操を通して、活元運動を通してそれぞれの生きる力を見つけ出せるお手伝いをしたいと思っています。
野口晴哉先生は『天心』で欲のない、
相手に何ら求めることもなく、恩をきせることもなく、ただ自然の動きに動く、そういう心の状態てやらなくてはならない、と仰っています。
私はこの言葉を大切に胸にして、この先もお役に立てたらと思っています。